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『魔性の子』(十二国記 - 長編0)

れんふぉん(・ω・)

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魔性の子 十二国記 0 (新潮文庫)

どこにも、僕のいる場所はない──教育実習のため母校に戻った広瀬は、高里という生徒が気に掛かる。周囲に馴染まぬ姿が過ぎし日の自分に重なった。彼を虐めた者が不慮の事故に遭うため、「高里は祟る」と恐れられていたが、彼を取り巻く謎は、“神隠し”を体験したことに関わっているのか。広瀬が庇おうとするなか、更なる惨劇が……。心に潜む暗部が繙かれる、「十二国記」戦慄の序章。

(新潮文庫 公式サイトより引用)

――泰麒編の長編第1作――
十二国記シリーズの外伝にあたる作品です。
「戦慄の序章」とあるように、十二国記シリーズの本編第1作『月の影 影の海』よりも先に刊行されました。

外伝からシリーズがスタートするというのはかなり変わっていると思いますが、それもそのはずで、当初十二国世界はあくまで本作の裏設定に過ぎませんでした。本作の刊行後、その裏設定が面白そうだから試しに作品化してみようと始まったのが、十二国記本編なんですよね。
以前の記事にも書きましたが、このような経緯から十二国記シリーズは本作の「種明かし」をしていくシリーズとも捉えることができます。

読者が十二国世界を知らないことを前提に書かれてあるので、予備知識なしで本作のホラー性を楽しみたい方は新潮文庫での順番通りこの作品から読み進めましょう。
(以下の記事では、真相に関わるところは触れないように書いているつもりですが、本当に予備知識なしで読みたい方はいますぐブラウザバックすることをお勧めします。)

一方、十二国記シリーズの中の流れで読みたい方は、当ブログでご紹介している順番で読まれてみても良いと思います。

時系列上は泰麒編の本編第1作『風の海 迷宮の岸』の後にあたり、次回ご紹介する『黄昏の岸 暁の天』とほぼ同時期を描いています。

§エゴが剥き出しになった時の恐怖
恐らく本作のテーマは本編中に何度も登場する、広瀬の心情を綴った次の一文。

人が人であることは、こんなにも汚い。

特に人のエゴが剥き出しになる物語後半には、この一文が何度も登場するようになります。

高里の周囲で起こる様々な「祟り」も十分にホラーですが、それを目の当たりにした人間がどんどんエゴを剥き出しにしていく様子が、それ以上に恐ろしいです。
十二国記本編は、人間のエゴを描いた上で「いかにエゴと向き合いながら気高く生きるか」が全体のテーマになっていると思うのですが、一方で本作は「エゴと向き合わず、むしろ剥き出しにしていったらどうなるか」を描いた作品になっています。
そういう意味でも、十二国記本編とは裏表の関係にある作品と言えると思います。


そして、この「人が人であることは、こんなにも汚い」という言葉、十二国記本編を読んだ方なら、『月の影 影の海』で延麒が言った

人は愚かだ。苦しければなお愚かになる

を思い出す方も多いのではないのでしょうか。
言葉の意味としては、一見かなり近いことを言っているように思えます。

しかし、今回読み返してみると、実はその真に意味するところは決定的に違う表現でもあるような気がしてきました。

確かに作中に出てくる人たちのエゴは凄まじく、恐怖や嫌悪感を覚えてしまうほどなのですが、彼らの行動の根本にあるものをよくよく考えてみると、
 ・自分だけは助かりたいという「生存の欲求」
 ・高里の存在感を借りて自分が認められたいという「承認欲求」
 ・過酷な現実から目を背けたいという「逃避の欲求」
多かれ少なかれ、人間なら当たり前に持っている欲求なんですよね。

この欲求そのものには良いも悪いも、綺麗も汚いもない。
ただ、人は時にこれらの欲求に飲み込まれ、自己防衛のために他人を攻撃してしまうようになる。
それをやってはいけないと、みんな理性では分かっているのに、苦しい状況に追い込まれると欲求を優先してしまう。

それは人である以上、誰もが落ちる可能性のある落とし穴。本来欲求を優先させるのが生物の本能ですし、人間も紛れもなく生物ですからね。
作中のエゴ剥き出しの人間たちの行動は、決して認められるべき行動ではないですが、こう思うと同情はしてしまいます。

そして、延麒は上記の台詞を言った時、「愚か」なことをせずにはいられなかった人物にも「理由」があったのだろうと当人の心情を想像しています。延麒は良い意味で「そうしてしまうのが人間」と諦めていて、上記の台詞にはある種の哀れみも込められているように思われます。

一方、広瀬は「汚い」と断じて蓋をし、それ以上考えることをしませんでした。
そして、そこに広瀬自身の「エゴ」が隠されて、それが本作のもう一つのテーマだったように思います。

その詳細について書くとネタバレが過ぎてしまうので控えますが、「人が人であることは、こんなにも汚い」というこの言葉は、作中の人間たちのエゴと広瀬自身のエゴの両方を反映した一文になっていたように思いました。

§十二国記本編との整合性
さて、冒頭にも書いたように、本作は十二国記本編よりも先に執筆され、十二国記本編にまつわる設定は本作の裏設定に過ぎませんでした。
しかし、十二国記本編が多く刊行された今読み返しても、設定の矛盾がほとんどないことに驚かされました。

十二国世界の構造から、本編ではお馴染みのあの言葉まで、十二国記本編を書いてから本作を書いたと言われても違和感がないほど、細かな描写がたくさん登場します。この時点で驚くほど世界観が完成されています。

また全体的に救いのないストーリーである本作ですが、十二国記本編の流れの中で読むと…。単発では暗いホラー小説ですが、全体に小野先生による細かな仕掛けが目にとれて、面白い再読となりました。

§感想まとめ
予備知識なしで読むと戦慄のホラー、
真相を知っていて読むととてつもない悲劇、
読む人の状況によって、違う読み方の出来る素晴らしい作品です。

通常ファンタジーでは現実世界から異世界に迷い込むのが普通ですが、本作では異世界のものが現実世界に迷い込む逆転現象を描いています。
十二国世界のものが現実世界に紛れ込む構図は『月の影 影の海』でも見られた構図ですが、異世界のものが紛れ込んで煌びやかになるのではなく、えぐいくらいの恐怖が引き起こされてしまうのが、徹底的に現実主義な十二国記らしいといえばらしい(笑)

また、真相を知らずに読むと、どういう真相が隠されているのかを広瀬とともに考えながら読める、ある種ミステリ的な楽しみ方も出来る作品になっていると思います。

ホラー小説であり、悲劇小説であり、ミステリ小説であり、ファンタジー小説である。
読み返してみて、改めて不思議な立ち位置の作品だなと思いました。

僕は真相を知ってから読んでいるので、「惨劇」の場面は恐怖というよりも「だめだ、やめてくれ…」と悲しくて、切ない気持ちになりました。
「汚い」と広瀬は断じていますが、本作に出てくるキャラは実は誰も悪くないというのが本当に悲しい。
それでも剥き出しになる「人間のエゴ」に恐怖と嫌悪感を抱いてしまうのは間違いなく、でも、果たしてこういう状況でエゴを抑えられる人がどれだけいるんだろうか…などと考えさせられながら読んでいました。

『月の影 影の海』では、十二国世界の人々から酷い仕打ちを受けた陽子が「この世界の人間どもは自分たちのことしか考えていない」と荒んでいく展開がありますが、紛れ込む側と紛れ込まれる側の構図が逆転したこちらでも起こっていることは同じ。
どこの世界に住まおうと人間のエゴは変わらない。
ならば、人間のエゴ(自分自身のも含めて)とどう向き合って生きていけばいいか?

それが描かれていくのが、この後に続く十二国記シリーズ本編なわけでありまして、そういう意味でも本作は「序章」なのです。

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